フランス料理と私

帰国そして教室

 
やっと卒業証書をもらったのは帰国前日であった。それをリックに大切に入れて夫、次男とともに1ヶ月間ユーレイルパスの1等車を使って、北欧やヨーロッパ旅行へ出発した。次男はこのとき小学校2年生であった。
帰国してからそれぞれに忙しく過ごしているうちに1ヶ月はあっと云う間に過ぎた。ところがその後思いがけないことが起こる。パリから送った荷物が盗難にあったとヤマト運輸会社から連絡が入った。卒業証書は手元にあったことはほっとしたが、送った荷物の中には教室のレシピーや買い求めた調理道具が沢山入っていた。これでは教室が開けなくなると絶望的になった。私の荷物だけでなく、日本向けのコンテナ一台分がフランスの港で荒らされ、金目のものはほとんどないとのことであった。確認のため東京のホテルに被害者全員が呼ばれた。
大きな台の上にコンテナ一台分の荷物が無残に置かれており、この中から自分のものを探してくださいとの事で、私はとにかくレシピーだけは破れないで残って欲しいと願いながらやっとの事で山のようになった荷物の中から見つかったときには、嬉しくて涙が出そうだった。調理道具もほとんど残っており安心した。さて思いがけないハプニングはあったが、とにかく教室を開く準備にとりかかった。
当時は実家の母が鹿児島市の中心地にマンションを持っていたので、そこを拠点にして教えようとキッチンを改造した。そして問題は生徒をどうして集めるのかであるが、まだ料理学校を卒業したての私に人が集まるのかと心配していたら、なんと母が彼女の友人5名を集めてくれたので助かった!平均年齢60歳を超える生徒さんたちが毎月1回の教室を楽しみにして来て下さったことはうれしかったが、どう見ても料理を食べるのが目的の人たちばかりであった。


夫の闘病

生徒も集まり順風満帆の船出だったが半年過ぎた頃突然嵐に襲われた。夫は帰国以来1年分の仕事の空きを埋めるように忙しく特に3月は大学の文部省に納める書類に忙殺されていた。少し風邪気味で咳がでていたが4月に入ってすぐ知り合いの病院に行って肺に癌が見つかった。ある大学の医学部の教授選考の書類を出したばかりでかなり有力視されていただけに本人はさぞかし無念であったろうと思う。検査のためひと月入院して、余生半年を家族と一緒に充実して過ごしたいとの希望で大学で教えながら自宅療養になった。その間の治療は同級生の医師が代わるがわるに家に来て下さり、そして半年後私と3人の子供を遺してあっけなく亡くなってしまった。長男(医学部学生)と長女(大学生))、次男はまだ8歳であった。夫の死後、1年間は夫の遺稿集の編集にかかわり2周忌を済ませた頃、東京の友人がプロを対象にした上級フランス料理学校が西新宿に出来たことを教えてくれた。単なる主婦の趣味ではなくこれから僅かでも生活の糧にならなければと思いもう一度勉強をしに次男を母に3ヶ月間預けて単身上京した。学校の帰り道、夕方西新宿のうっすらと浮かぶビルの谷間から覗く夕日を眺めながら、パリですごした夫の事や鹿児島の次男の事などが想いだされ涙することも度々であった。これまで苦労もなく甘やかされ育った私であったが精神的に頼る人もなくこれからの生活の事など考えると不安はあったが、まっすぐ前を向いて歩くしかないと思い3件目の料理学校に再び入学することになった。
 
上級フランス料理学校

学校は西新宿にあり生徒は約20名でほとんどが有名ホテルの中堅のシェフで私みたいなパりでちょこっと勉強したぐらいな者とは違い最初から実力には雲泥の差があることは確かだった。パリの商工会議所と東京ガスの共同出資で作られ、東京ガスのショールームの中のフランス料理食文化交流センターの中に(FFCC)キッチンが作られ設備は本格的であった。教師はフランスから呼ばれ日本語の通訳を介して授業が始まった。ほとんどのシェフが現場で働いているので授業は午後から始まり午前中は希望者はフランス語のクラスがあったので私も受講した。内容の料理はプロを対象にしているので高級な食材が多く実際教室で使ったレシピーの中には使えるものはなかった。しかしプロとして知っておかなければならない知識や料理は大変役立ったと思う。夏休みには次男が一人で上京してきたので久しぶりに休みをとってディズニーランドに2泊のたびに出かけた。その頃私も疲れていたので、丁度良いタイミングだった。次男を羽田まで送ると数日後には卒業試験が待っていた。ここで地獄の苦しみを又味わうことになる。フランスの料理学校と違って今回は習ったものの料理からではなく、主菜が肉か魚でバスケットに適当に入っている野菜を使ってオリジナルの4人分の料理を作ることになる。何が当たるか分からないまま、そしてあたえられたのが鶏1わと野菜のバスケットであった。今回はデザートはなかった。時間内にオードブルとメイン料理を作らなければならず、私は鶏のビネーがー風味とインゲンのサラダを作った。制限時間内に盛り付けも済ませたらフランス人のシェフや日本人の審査員などにもっていかれ20点満点で評価されいよいよ黒板に発表された。
勿論私は最下位にあるだろうと思いみてみると私は下から2番目にあった。運動会で20人で走って19番目になったようなものである。私に一番評価をしてくださったのは17点であった。一体誰?と見てみるとあの有名な服部栄養専門学校の校長であった。フランス人の審査員はほとんど10点にも満たない評価であった。私としては時間内に完成することだけでも満足していたのだが味つけもよく盛り付けもよいとの評価を得たのはビリから2番目でも嬉しかった。卒業試験もおわり残り1ヶ月はフランスでの実習が直前に迫ったころ鹿児島の母が階段からすべり息子の世話が出来ないから帰ってきてくれといわれやむなく帰省することになった。月謝を(3ヶ月で180万円)払ってあったので事情を話したらひと月分は戻ってきたのでほっとした。


La fontaine 
東京から戻りこれから本格的に私の料理教室La fontaineもスタートした。夫が倒れる前に生徒さんだった人たちが最初の生徒であった。月謝もフルコースで5000円でワインつきだったのでほとんど労多くして益少なしであったけれど自分の夢であった料理の先生をやっていることが嬉しかった。その頃はバブル全盛期のころで少人数制でフランス料理の教室は(カルチャースクールはあったが)私が始めてであった。月謝を7000円にあげたのにもかかわらず、全く宣伝もしなかったがその内に口コミで広がり最終的には一クラスが6名から7名になり鹿児島で7クラス、その間福岡にも一クラスでき8クラスになっていた。ひと月に一度は福岡に道具や皿,テーブルクロス、ナフキンなどなどを宅急便で送り、済んだらその日に鹿児島へ帰ることも度々だったが今考えるとその頃が私の一番輝いていたときだったのかも知れない。その内次男が大学受験に失敗し福岡の予備校にはいることになった。教室を始めて10年が過ぎようとしていたが沢山の生徒さんがいたので教室を閉じることに抵抗もあったけれど思い切って家を売って福岡にうつる決心をした。
その後バブルもはじけ世の中が少しずつ景気も悪くなっていった。


福岡市へ
家を処分して福岡市中央区六本松に住まいを購入し、新たに教室を再開した。移住する前に教室は作ってあったので一クラスからスタートした。私はどうも自分を売り込むのが出来ないタイプで、ここでも生徒さんたちに助けられ、鹿児島からも来てくれたりで最終的には4クラスになった。考えてみれば私もこのときは55歳になっており気管支喘息をかかえながらかなりきつかった。けれど息子が翌年には大学にはいり仕送りもあるので働かざるを得ない状況であった。仕事もそれなりに充実して楽しかったけれど体力的には大変だった。車の運転も都会では無理だと思い止めたので食材を求めて両手に買い物袋を抱えリックサックを背負って数箇所まわるので膝を痛めて余計大変になった。ここが潮時と思い60歳を期に教室を閉じることにした。15年間の教室で出会った生徒さんの中で私と同じRITZで勉強して現在鹿児島で教室を開いた生徒さんが私のレシピーを受け継いで教えていることも幸せである。そしてもう一人は今年フランスへ仕事を辞めてパティシエになりたいといって旅たつ生徒さんもいます。若い人が料理を好きになって世界へ羽ばたく姿をみるのはとても嬉しいことです。又この間2人の生徒さんが亡くなられました。この方たちの御冥福を祈りながら、これからも私が出来ることを探し求めていきたいと思います。 


教室再開

 教室を閉じてから今まで出来なかったことをしようと2006年シニアネット福岡へ入会した。
この事が今回ホームページにつながろうとは夢にも思わなかったが、ここで未知の世界へ1歩踏み入れた気分で何もかもが新鮮だった。余りにも夢中になりすぎて首の骨を痛めたこともあった。
丁度その頃母が急に高齢者賃貸住宅へ入ることになり施設に移って行ったので私は中央区のマンションを処分して実家へ引っ越した。
実家へ引っ越し、気分新たにキッチンのリフォームを始めたら生徒さんの希望もあり4年間のブランクを経てもっと気軽にフレンチを楽しんでもらいたいと材料、レシピーもなるべく作りやすいように改めてカジュアルフレンチIZUとして再開した。
そのご母の介護のため同居することになり69歳で引退した。齢73歳、まだ記憶がしっかりしている内に私の生きた証に私の料理をホームページに残して置きたいと思います。









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